雑記です。今朝の俳句番組が面白かったので。
(2021年5月16日)
■「NHK俳句」第3週の岸本尚毅が素晴らしい
先日のJPOP作詞作曲レッスンからの流れから、タイムリーな出会いがあった。
たまたま朝見ていたテレビ「NHK俳句」で、岸本尚毅 氏が非常に優れた添削を披露してくれた。
岸本尚毅氏のスタイルについては下のリンク先などを参照してください。
「NHK俳句」で岸本氏が教官をつとめて添削を行うのは各月の第3週です。
表現したい題材があり、それをいかに17文字で表すか。そこには無駄は無く、「単語選び」「配置」に徹底的にこだわり、たった1文字の助詞のニュアンスまでをも突き詰めるのが俳句です。
作詞作曲をやる人が俳句をやる必要はありません。
学ぶべき点は「常に選択肢を持つこと」です。
俳句の特徴は17文字という極限の制約があることです。
音楽の作詞の特徴は、音の高さと長さなどがあることです。
音の高さと長さという制約をとっぱらい、俳句の世界での言葉選びを少しでも習得することで、作詞作曲に活かすことができるはずです。
番組では岸本氏が添削を行って行きます。その技術と語り口は非常に分かりやすく、納得できるものです。
先日の作詞作曲のレッスンの添削で特に重点的に行ったのは、
- 多角的な表現(暗喩など)
- 五感と立体感の表現
- 助詞の選定
- 重複表現の削減
- 時系列の整理
まー要するに片っ端からやったわけです。
なにか表現したいテーマがあり、それを作詞作曲という芸術に実装する。その時必要になるのは技術です。
もちろん情熱は必要ですが、それを外に出して作品という形にしていくためには純粋な技術力が不可欠です。情熱は燃料ですから、技術を何時間振り回すかというコストの問題です。
音の高さと長さとの統合性を考慮していく際には様々な技術があり、意識的に選択して手に持って振り回す必要があります。ドラクエ風に言うなら「武器は装備しないとダメだぜ」というやつです。知っているだけじゃ無意味なので、実施しなければいけないんです。
やや脱線した言い方をするなら「人にやさしくする」「愛情」という情熱は思っているだけでは無価値で、言葉やモノにして明確に差し出さなければ伝わりません。愛情を高圧的に行使してしまうと束縛や過保護になってしまいます。適切な使い方をしなければ愛情でさえ人を殺してしまいます。技術とはそういうものです。「好き同士だから秘密はやめよう」なんて破滅しかありません。「思っていることがあるなら何でも言って」なんて無理です。
時と場合。常に考えなければいけません。それが情熱と技術です。
このように、私はたまにこういう駄文を書きます。そこには技術も情熱もありません。常時すべての言行に責任を持って生きている人など存在しません。
・蛇足
一方を褒めつつ他方をけなすのは良くない行動だと知っています。
それを分かった上で「NHK俳句」における岸本氏以外の俳句教官を批判します。
彼らは「この方が良い」と理由もなく押し付ける傾向があり、語り口も明るさを装っているものの高圧的であると言わざるを得ません。
たしかに表面的には岸本市よりも表情豊かで接しやすい風です。でもなにか圧力を感じるんです。
同様の圧力は近年流行してきたyoutuber系にも見られます。
大きな声、勢いの良い語り、身振り手振りが大きく元気な態度。
でも、そこから臭うのは彼らの怯えた表情だと私は感じます。
同様の違和感を感じるのは、元気な営業マンや着飾った女性など。
成果を出さなければならないという責務と、その積み重ねで勝ち取ろうとする人生のエゴが臭うのか、定かではありません。でも、総体として「頑張りすぎ」「空回り感」「押し付け」がにじみ出ているように感じるんです。私は。
もうちょっと分かりやすく言うと、芸人。
テレビという媒体が求める作られた面白さのために、「なにか面白いこと言って」というカンペに従って、不自然なリアクションをする。(これは、あるいはテレビという媒体そのものが自分たちをそう定義することでゆるやかに衰退しているとも。)
そこで展開されるやりとりを至高とし、マネをする一般人は多い。が、表っ面だけなので寒々しい。それを凝縮しているのがyoutuber系の寒々しさだと感じる。
(そういうテレビ的なものをとっぱらった傑作番組は「徹子の部屋」で、普段彼らがカメラの前で行使する芸能人然としたリアクションを封じ、素っ裸にしていく。)
作らずナチュラルで良いんじゃないかと思う。でもそれは難しいことなのだというのも分かる。安易な「◯◯っぽさ」を目指すより、自分と自分の作品に真正面から立ち向かいたい。
■民放にもある俳句番組
上よりもゆるい内容、バラエティ番組ノリです。
が、「才能あり」と判定するに至る理由や「才能無し」に対する添削が無いので、作詞と言葉のテクニックを学ぶ目的としては薄いかも。