eki_docomokiraiの音楽制作ブログ

作編曲家のえきです。DTM/音楽制作で役立つTIPSを書いています。

(趣味)プラモをやって気がついたこと

プロの音楽家が、趣味のプラモデルの世界で得た情報をすり合わせる日記。

(2024年4月22日~随時加筆)

■初心者というか出戻りというか……

初代ガンプラの80年代から90年代末のエヴァンゲリオンやミリタリースケール系まで、たまにプラモデルを作っていました。合わせ目処理は数回やっただけです。

そこから20年の空白期を経て半年前に戻ったので、とても経験者とは言えない初心者、と名乗るべきでしょう。

 

が、大人になっての再開なので、それなりの資金力があり、様々なツールを試し、ほしいキットを好きなように買うことができています。

■プラモ一段落。

プロモデラー原型師の「初代ガンプラ王」こと日野鋭之介さんのプラモデル教室に行くことで、ひとつの節目となりました。なので、プラモ関連の雑感をブログ記事として書き残しておきます。

www.youtube.com

 

氏のYoutube動画はほぼすべて見ました。

動画を見る他、直接お話する機会が数回あり、氏の哲学は私のコンピュータ音楽に対する考え方と極めて近いと感じました。

プラモデル教室の席数を初心者すぎる私などが専有してはいけないと思って参加を遠慮していました。開催日直前になっても席があいていたら参加しよう、と決めていました。最終的には前日になってプラモデル教室参加申し込みを決定。

 

■思考停止してはいけない

「この作業ではコレを使え!」的な思考停止したノウハウが横行しつづけているのは、DTM(コンピュータ音楽)もプラモデルも同じなんだなぁと理解しました。

どちらの世界でも大切なのは、原理原則、物理と化楽を学ぶこと。

メーカー大本営の情報に惑わされないように気をつけること。

イメージだけを優先して作業しないこと。

 

■どの世界にも誤解が蔓延している

私がメインにしているコンピューター音楽の世界では、20年遅れた技術が未だに流通しています。

よく勘違いされていますが、超一流の人というのは書籍を書きません。坂本龍一久石譲が書いた作曲の教科書はありません。音楽教育業の人が書き、長い事使われています。私もその中の1人として含まれるかもしれません。

一方、テクノロジーは日進月歩です。すごい勢いで進化しています。

出版当時は名著と呼ばれた本も、すでに古い内容になってしまっています。

 

「本から情報を得るタイプ」の人が本の情報を正解だと解釈し、ネット時代になっても右から左に情報を流通させてきました。

中略、

今となっては20年前のMIDI打ち込み技術のほとんどは無価値なものとなっています。

これらは詳しくは個人レッスンで必要に応じて解説しています。

その一部を紹介するとするならば、90年代、00年代に「カラオケデータ制作」の仕事ノウハウとして様々なMIDI打ち込み技術が流通しましたが、その多くは結局のところデータ納品先の管理者を騙すための見せかけの技術でした。具体的に言うと、ランダマイズやticずらしです。それら技術のほとんどは、今日のプラグイン音源では必要なくなっています。

同等に、「数値入力しやすいDAW」も存在価値が皆無となりました。

 

プラモデルの世界でもそれは同じなんだなぁ、と学びました。

昔のキットで必須だった技術、有効だった技術も、今日では不要となったり、更新されたりしていました。昔は情報不足だったので、メーカーに踊らされる末端ユーザーが多く、プロも広告塔として本質的に無価値な情報と商品を流通させ続けました。

 

■なんでも安上がりにするリスク

どちらの世界でも、とにかくツールを安くしようとする一派があるのだと学びました。

「安物買いの銭失い」になるのはどこの世界でも同じようです。

過剰に最高級品を使う必要はありませんが、標準以上の道具を最初から使うことで、作業ミスの原因が自分なのか道具のせいなのかを切り分けることができます。

安いものには安い理由があります。

その一方で、上でも書いたとおり、原理原則・物理化学を理解しておけば、過剰な価格のメーカー品を買わずとも、必要な効用を獲得できます。

くれぐれも商品名で判断しないことです。

 

「弘法筆を選ばず」を誤解してはいけません。

正)達人なら道具の質によって適材適所に活用できる知識がある。

誤)道具は安物で良い

 

■準備し、ワークフローを洗練させていくという共通点

私が思うに、音楽制作はセンスではなく手順です。

センスは手順の細分化によって深まります。

 

プラモデルではそれらのほとんどが可視化されている具体性の高い物理行為なので、極めて明確です。

音楽の場合は、頭の中で考えることが大半で、考え抜いた結果が音となって現れるだけです。

楽器演奏はその大半が体育的な運動能力に起因するので、可視化される度合いが高くなります。

 

作業手順を考え、個々の技術を磨き、

個別の知識においても、事前に熟知し、実験し、反復することで確度が高まっていきます。

 

日野氏の著書もレクチャーも、その大半が化学的な知識に裏打ちされており、極めてアカデミックなアプローチである点がすばらしいと感じています。その上でとてつもない経験と反復によって作業精度とスピードがあります。おそらくですが、こうした能力は氏が若い頃にプロのドラム奏者であったことから応用されているのでは?と推測しています。あらゆる楽器の中で最も演奏が可視化されるドラムの習得が、プラモデル制作という体育に応用されているのでは?この点についてはYoutube動画内でも少しだけ触れられていましたが、いつか機会があったら根掘り葉掘り聞いてみたいものです。

 

■同族嫌悪

辛辣な観測ですが、プラモデルの世界の人たちは音楽以上に同族嫌悪が激しいように思いました。

インドア、オタク、サブカル。そして基本的に個人作業。

 

プラモデルの世界の最大の特徴は「市販されているキットの上に成り立っている」ので、完全な個性の獲得は他の創作分野よりも困難な構造下にあることが一因では?と推測しています。

料理や木工DIYのように、材料だけ買ってきて自作するのではなく、すでに形状の大半がメーカーによって製造されているという点が極めて特異なジャンルだ、ということです。

もちろん例外的にフルスクラッチ等の手段でオリジナルの作品を生み出すことは可能ですが、あくまでも「キットを買って工夫しながら組み立てる」のが一般的だと言っても差し支えないでしょう。

そうした不可避の構造が無用の対立を増幅しているのではないかと思うんです。

・ゲームプレイングにおける同族嫌悪の構造

似たような構造はゲームプレイの分野においても見出すことができます。

誰かが作ったゲームをプレイし、その腕と攻略法のオリジナリティを競い、高めあう。しかし、どんなに足掻いてもゲーム作品内での出来事であり、例外的な行為としての「ゲーム制作」に踏み切らない限りは、各々のプレイスタイルを模倣したり、否定することでしか自我を発露することはかないません。

同じゲーム作品をプレイしている仲間であるのに、特定のジャンルを否定する人は多いです。同じジャンルであっても、細かな差異への趣味性の否定が人格否定にまで発展してしまっています。同一のゲームであってもプレイスタイルや技量の優劣について言及し、本来仲間であるべきなのに否定しあっています。

私は若い頃にはいわゆる「全イチ」、全国1位に手が届くレベルまでアーケードゲームをやっていました。全イチの人とも多少の関わりをもったこともありました。突き詰めているからこそ、そこに取り組む姿勢や、時間をつぎ込むために選ぶゲーム作品のチョイスによって同族嫌悪をしあう人たちも多く見てきました。わずか半年ながらも、プラモデルをやる人たちの話を見聞きしていると、それとまったく同じ構造だとしか思えなかったんです。

 

しかし私は同族嫌悪をやめろとは言いません。

各々の矜持によって、己の道を進む。そのためには切り捨てて犠牲にしなければならないものが必然的に生じてくるものです。

何かを美しいと感じるためには醜さを見つめなければなりません。

 

私は現時点ではプラモデルに対してそこまで強い情熱、執念を獲得できていません。いや、もしかしたら、考え抜いていないだけであって、すでに「ゴテゴテしたガンダムは好きじゃない」とうっすら感じているから、ガンダムシリーズでも『SEED系』や『水星の魔女』に興味を持てないのかもしれません。なんか変なプラモばかり買っているなぁという嗜好性は出てきていますし。

 

■プラモデル制作は古典クラシックの演奏にとても似ている

誤解を恐れずに言い切るなら、プラモデルとはクラシック音楽の演奏にきわめて近いものだと感じました。

もしかしたら、プラモデルが好きな人はクラシック音楽を聞いてみるとなにか刺さるものがあるかも?

 

  1. すでに出来上がっている設計図がある
    (例外あり。フルスクラッチ、即興演奏)
  2. 設計図の範疇で、個性・解釈の差を与える楽しみ、競争
  3. 力量差によって、限界が生じる
  4. 守備範囲を広くするタイプ、極端に狭くするタイプに二分できる

 

ガンダムのプラモデルを戦艦にすることはできません。(達人が無茶をすれば可能)

バッハの古典音楽をビートルズのロックにすることはできません。(達人が無茶をすれば可能)

 

古典クラシックは細かい演奏指示が無いので、楽譜をどのように解釈して演奏するかの自由度が高いです。しかし自由な解釈をやりすぎると「時代研究、作家研究がなってない!」と怒られます。保守的すぎると「つまらん」と言われ、感銘を与える演奏解釈は「斬新だ!」と称賛されます。

中途半端な学習段階の人は、往々にして「時代研究がなってない!」と怒りっぽいです。

本当に古典クラシック演奏とプラモデルは似ているなぁ。

 

■再開して直感したのは、組むだけなら簡単なキットが増えていること

6分45秒からの一言に注目を。

youtu.be

札幌のプラモデル教室でもちょっとだけお話した「今日さん」。かなり有名なモデラーさんです。

曰く、

「パーツがピッタリ嵌まるガンプラに慣れていると、いかにぬるま湯に浸かった環境にいるか良く分かります」

これは昨年の正月に作ったMGゼータガンダム(Ver. ka)などで感動したことです。

p-bandai.jp

7000円ほどするキットなので、高いと思う人がいるかもしれません。が、とんでもない完成度のキットだと「私は」感動しました。もちろんこのキットのプロポーション解釈等に対して否定的な感想を持つ人達がいることも踏まえた上での個人的な感想です。

ひとつひとつのパーツを組み立てる際の部品の嵌まりの正確さ、必要な耐久性、パーツ数からは想像もできない組み立ての明快さ、合わせ目が表面に現れない設計の見事さ。それらの両立が素晴らしかったです。

(ただし、ビームライフルの伸縮機構部分はゆるゆる。接着剤を盛るなどしてグッと止まるようにするべきでしょう。)

 

一方でガンプラにもダメなものはありました。

他ブログ様による「おすすめできるキット、おすすめできないキット」それぞれ5つ。

fusm.site

ここで紹介されている中では、RGニューガンダムはとても良かったです。

初代RGガンダムはひどかったです。

 

おおむね新しいキットはできが良い傾向と言えます。

ロボットの好き嫌いだけで選ばず、キットとしての完成度の良し悪しで選ぶのも面白いでしょう。逆に、「これが好きなんだよ!」という愛情でクソ評価キットを買って頑張るのも素敵な行為ですね。私もやりました。どのキットなのかは内緒にしておきます。

 

いろいろなキットを試すことで、設計・製造技術の進化を体験することもできました。

 

プラモ教室の日野さんのようなプロ目線だと「これの原型(設計)は◯◯さんがやったから良い(ダメ)」という、一般ユーザーには知り得ない情報もあって興味深かったです。

これはゲームに近いかな?と感じました。カプコンのゲームが良いのではなく、スタッフ個人個人の性質による、という「メーカー論」「作家論」のような解釈も可能な世界ですね。

 

特定メーカーやスタッフに対する好き嫌いもあり、嫌いでも成果物のクオリティだけは良い、というモーツァルト(ダメ人間)のような評論もあったりしますし。

 

■製品キットへの美意識

で、日野さんが指導用にジャンクキットの山を漁りながらつぶやいていた一言がとても印象的でした。

「この頃のバンダイのキットはやっぱりいいね。これを設計した◯◯さんの腕ってのもあるけど」

「キットの好き嫌いは別として、組まなくても、ランナーキットを眺めるだけで楽しめる」

プラモデルとはつまるところ樹脂の射出成形による構造物であり、樹脂の性質を熟知した職人が金型を設計し、調整することで現出するものです。樹脂がどのように流し込まれ、どの部分でどの程度消費され、末端でどの程度の密度に減っていくか。そこまで熟知した一流の職人が携わったキットは、そのランナー構造と個々のパーツの樹脂量、調整した形跡(ランナー途中にある穿孔による樹脂流入量の調整等)を眺めるだけで興奮できる、とのことでした。

もし機会があれば、具体的な実例・実物を比較しながら、そうした職人芸の解説もしていただけたらなぁ、と思わずにはいられない一言でした。

 

奇しくもプラモ教室と同じ日に放送されていたドラマ『舟を編む』が最終回でした。

www.nhk.jp

ベストセラー小説の4度目のビジュアルメディア化。

「辞書を作る」という地味すぎる仕事を静かな情熱に溢れた脚本で仕上げきったこのドラマでは、紙印刷にまつわる様々な職人のこだわりも描かれています。

現存する紙印刷機の限界である「8cmの戦い」に奔走する日陰部署の逆転劇。

メタ視点では、2009念の原作から15年が経過した2024年に大きくアレンジした脚本からにじみ出る「原作と映像作家の戦い」の巧妙な戦略。映画版、漫画版、アニメ版に負けじとするテレビ屋の奮闘。

やりたいこと、できないこと、あえてやること、未来に任せること。

プラモデルを設計し販売する人たちにも等しく通じる矜持を感じずにはいられませんでした。

 

単純な趣味としてプラモデルに触れるだけではなく、さまざまな角度からそこに集う人たちとの出会いは、私の天命にとっても重要な視点を与えてくれるものでした。

 

また、タバコを吸いながら雑談した日野さんとのやり取りの中で自覚できたのは、「異なる要素・ジャンルを横断的に、応用的に扱う能力」についてでした。説明すると長く抽象的になりすぎるのでこの記事では割愛します。

つまり、私自信の能力の中で秀でているのが「応用力」なのだと改めて自覚できたことは大きな収穫だった、ということです。単純にプラモデルの腕だけに限って言えば何の取り柄もない状態ですが、本業の音楽系において、その能力を発揮することこそやはり自分のアドバンテージなのだと確信できたのは喜ばしいことでした。

何を言っているのやら、という文末ですみません。

私は私なりに先へ進みます。

 

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