いまさらですが『のだめカンタービレ』、アニメ版では1期20話について。私がこの作品で最も印象的だった人物が出てくる。奇人変人の描写が多く、真剣に受け止め損なう作品なんだけど、たまに本当にビリっと来る描写がある。だからこそガチ勢にも受けたんだと思ってる。
(2020年5月10日)
■「こういう表現の時はこう演奏する」
複雑な解決方法や試行錯誤ではなく「こういう表現に必要なのは音の大きさだ」と最もシンプルなディレクションを行う場面がある。
主人公の指揮者は楽譜を変更し、フレーズにスラーを追加している。が、クラシックでは一般的に楽譜を変更することは無い。その常識をあえて破り、積極的に楽譜を変更している。
カイ・ドゥーンはその点は無視し、追加されたスラーの弾き方についてバイオリン隊に技術的なアドバイスをする。
その直後に指揮者に対してスラーを追加した理由を問い、「それならスラーの追加よりも音量だ」と付け加える。
これがどういう状況かというと、全員に楽譜の変更を要求する、つまり下準備の必要なスラーの追加よりも、もっともシンプルな表現技術として「音量の増大」こそが肝要だ、としているのである。
指揮者はこの「こういう表現では」という言葉で、自分がやろうとしている音楽を初対面の他人が見抜き、より的確な実装方法があるということを知る。カイ・ドゥーンの恐るべき洞察力にかつてない種類の衝撃を受けるわけだ。
・伏線回収でもある
この言葉には事前に伏線があり、はじめてコンマスを務める学生のモノローグに「コンマスは指揮者の意図を汲み取り、オーケストラに指示を出す」という場面がある。その伏線を完璧に回収するのがカイ・ドゥーンだ。
『のだめ』のあらゆるエピソードの中で個人的には一番音楽的だと感じたシーンなんです。
・手段の否定ではない
もちろん複雑な手段よりシンプルな手段が優れているという単純なものではない。シンプルな手段を使いこなしても、どうしても手が届かない要素もある。
今回の例だと、フレーズにスラーを付け足すとした主人公の解釈は、いささか手が込みすぎている。貴重な指揮経験のためとはいえ、入れ込みすぎだろう。
カイ・ドゥーンは一流奏者としての寛容さとチャレンジの精神を持ち合わせているので「Aではなく」と否定せず、上乗せする形で「それをやりたいならBだ」と前進させている姿勢も素晴らしい。単に「貴様ごとき学生が、偉大な音楽を改変するとは何事か!」と権威主義的な説教を押し付けることは一切無いのだ。
ダメだダメだと否定して自分の方向に持っていこうとするのでは、オーケストラという集団音楽は成立しない。指揮者が総監督となり、彼のやろうとしていることを読み取らなければならない。なにより重要なのは知識と経験、権威はこのように使うのだ!と知らしめていることだ。指揮者はその強権を振るう際に力を正しく使わなければならない。そう言っているのだと私は解釈している。
■DTM的に、あなたの曲を良くするために必要なのは何か?
納得行くまで仕上げることには時間が必要になる。
そして時間は無限ではない。
有限の時間の中で的確に作業を進めなければ死が迫るのだ。
eki-docomokirai.hatenablog.com
徹底的に作り込むことに対する幻想を捨てなければならないだろう。向かうべき方向性を熟知していない状態で、どんなに時間を費やしても無意味だ。
また、機材を買うことでは何も改善されないことも、しっかり認識するべきだ。
これらはチンパンジーの前にタイプライターを置いて、文学作品ができあがることを待っているのに等しい。
良い消費者ではなく、良い音楽家になりたいのであれば、そういう誤った価値観から逃れなければいけません。
■個人的エピソード、吹奏楽にて
過去に高校吹奏楽部の指導の仕事をしていた際に、このエピソードと似た状況に出くわしたことがある。
その場面は木管楽器が長めの音符でテーマを演奏する箇所で、顧問の先生はそれを静かな場面だと思いこんでいた。楽譜に書かれているfをPに書き換え、繊細に演奏させようとしていた。
が、そのフレーズは1曲を通じて最も出来の悪い場面なのは明らかだったので、顧問の先生は学生奏者1人1人の演奏を確かめたりする、いわゆるダメな吹奏楽指導をやってしまっていた。
休憩時間になり、顧問の先生は私に「ここがうまくいかないのはどうしてだろう?」と相談してきたので「先生、そこはfです。」とだけアドバイスし、試しに大きく強い音で演奏をさせてみることを提案した。
結果、大きく演奏することで楽器それぞれの性能がしっかりと発揮され、行きを押し殺したpに抑圧された音は無くなった。アマチュア指揮者のエゴでいびつな解釈を強要しても、何も良いことは無いのだ。楽団員は指揮者のおもちゃではない。