eki_docomokiraiの音楽制作ブログ

作編曲家のえきです。DTM/音楽制作で役立つTIPSを書いています。

美しい嘘

(雑記、思想、哲学)完全に雑記です。このブログではあまりこういう記事を書きたくないのですが、書いている本の内容と関連するのでちょっとメモついでに。

(2020年6月7日)

 

■なぜこういう記事を書きたくないか?

できるだけ照準を絞るべきだと考えているからです。

過去にやっていたブログでは、手を広げていろいろなことを書いていたのですが、違和感が出てきた。

で、このブログでは「音楽制作話」をメインにしています。

横道にそれる話題としてゲーム”Diablo”シリーズの話も書いていますが、これはキャラ付けの一環です。

音楽制作の話だけだと無機質すぎるので、「メインコンテンツ+趣味の1つについて書く」という方針にしています。

なんでゲーム話を書くの?かというと、音楽制作に対する正論として「ゲームをやめろ」というものがあるからです。何をやるにも息抜きの趣味は1つくらい必要不可欠だよ、という表明なんです。同時に、その1つの趣味においてもそれなり以上の実力と独自性を出せるくらい突き詰めるべきだ、と言いたいからなんです。

 

■集中力は戻るのに23分かかる説

で、本題。

 

今朝ちょっと気になって調べていたのが『集中力は一度途切れると、戻るのに平均23分かかる』という説について。

 

コンサルが言っていた話で、どうにも頭ごなしに「23分かかります!」という根拠に欠ける話だった。仕方ないよね。コンサルの仕事は決めつけてかかって、その仮説に乗っからせることで舵取りすることだから。

で、ちょっと調べてみた限りでは、「集中力が戻るのに平均23分かかる説」は、たぶんこれが初出。

www.workersresort.com

興味がある人は「集中力 ”23分”」とかで調べてみれば有象無象の記事がいくらでも見られる。でも、おおむねオカルトじみていたり、商売っけが強い記事ばかりだったりする。しまいには「集中力を高めるためにはハイレゾ音源を流せ」というものまで出てくる。大丈夫かよ。

なお私はマインドフルネスとか勧めている人が嫌いです。正確にはその一部がとても嫌いです。だって、マインドフルネスって発音する時に日本語アクセントで「マインド『フ』ルネス」って言うと、「発音が違います。英語アクセントで『マ』にアクセント付けて発音してください!」とかどうでも良いことを指摘してくるんだもん。それって「ロリヰタ」とか「ドラァグクイーン」が表記に気をつけろって言うことで、せっかく興味を持って接してきた人を拒絶する行為と同じじゃね?って思うんだけど、どうなのよ?発音や表記でしかアイデンティティをアピールできないのはアレじゃね?若者の略した言葉を嫌う一方で昭和チックな「ハナキン」とか言ってるガラクタと同種にカテゴライズされちゃうぞ?なおコレ系で一番面白かったのは「ポルシェと呼ばないでポーシャと呼んで」「シャガールじゃなくてシャゴーね」とかいう謎のマウントを試みてくる白人コンプレックスの塊。

 

話を戻す。

「集中力が戻るのに平均23分かかる説」。

それが真実かどうか、ソースが信頼に足るものか?というのは実はそれほど意味がない。

要はそういう決めつけを信じ、信じることで力を出せるなら手段は問わないということです。一種の偽薬、プラセボを積極的に引き出す行為と言えなくもない。

心理学用語ではこれを自己欺瞞と呼びます。

厳密には自己欺瞞ではないのですが、広い意味における自己欺瞞だとご理解ください。エゴと呼んでもさしつかえないかもしれません。

かじっている程度の心理学の知識では、私が考えるこの「積極的なプラセボ」にピタリと当てはまる用語が見つかりません。

 

ただ、そういう生き方を選択してしまうと、次々とハマってしまう。自分を騙す人は他人が持ってくる美味しい言葉にも魅力を感じてしまう傾向がある。この傾向の明らかさは、少なくとも「集中力が戻るのに平均23分かかる説」よりも確実性があるように思うが、どうよ?

 

・美しい嘘

『音楽は自由だ』『頑張ればきっと報われる』などの、一見して美しく希望に溢れた、無条件に受け入れる「べき」考え方だって、そもそも根拠が無い。「『努力は報われる』のソース出せよ、ソースを!」と言われたら閉口してしまうか、そういう空気を読まない奴(≒私)に対して人格攻撃をするしか無くなる。

まぁ学生時代の私はといえば、そういう攻撃をさせておいて「おいおい、さっきは『話し合いで解決しよう』って言ってこの場を設けたはずだけど、kの人の定義する『話し合い』って、真正面から返事した相手に対して声を荒げて人格攻撃することだったのか?」という小賢しいアクティブ・ディフェンスを使うクズだったのわけだが。

 

・自分の責任ではない、と理性的に考える

それはさておき、

 

ラグビー選手の五郎丸歩 氏は『チームとしてキックは自分に任されている。それを外しても自分ひとりの責任ではない。』『入っても入らなくても知ったことか、という気分で蹴っている。』という旨の発言をしていたことを思い出します。

これもネットでソースが見つからないTVインタビューでの話だった、と記憶しています。うろ覚えなので間違っていたらすみません。

 

五郎丸氏と言えば忍者のように手を組むポーズのルーチンで集中し、キックを成功させたヒーローとして一世を風靡しました。私が記憶しているインタビューでは、このルーチンを取り入れた際に、同時に上の考え方を導入したと記憶しています。つまりあのポーズは「俺には責任はねーよのポーズ」だった、と解釈することもできます。

誰かの責任にしたがり、自分の責任にしたがる。間接的には、失敗した人の肩を叩いて「お前の責任じゃないよ」という発言も、裏を返せば「お前の責任だが、俺は許す」という意味だと解釈することさえできる。

それもまた美しい嘘なのではないかと思うんです。

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