今日12月2日はアーロン・コープランドの命日だそうです。1990年没。
■エル・サロン・メヒコ(1936)
良い演奏をしているYoutube音源はこちら。
明らかな演奏ミスが散見されますが、総じて素晴らしい演奏解釈です。Youtubeで検索して一番上に出る動画より、多少のミスをしていてもこっちのほうがより「メキシコの酒場」感がある。ハゲは有能。
聞きつつ以下の記事をどーぞ。
他にもっと綺麗な映像とミスの無い演奏をしている動画もあったのですが、クラシックに於いて最も重要な「曲の解釈」が死ぬほど気に入らなかったのでこっちをチョイスしました。動画時代には綺麗な映像ばかりが評価基準になってしまうのは音楽的には大きな損失だと思います。
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楽譜はニューヨークフィルのアーカイブで(目隠し加工されているが)大雑把には把握できる。
下の画像は後半の特徴的なリズムの箇所。
思わず何かのセリフを当てたくなるリズミカルなフレーズ。
・楽譜による「陽気な酔っぱらい」表現
この曲は訳あって高校生の時に研究をしていました。
が、演奏も指揮もすることは無かった無念の曲です。
冒頭の変則的なリズム表現をどのように記譜しているかを見ると「へー、こう書かれていたのか」と驚くはずです。微妙な揺らぎを精密に記譜され、指揮者と演奏者に委ねずに制御しています。
が、他のYoutube動画ではこういう箇所の指揮がガチガチになってしまっていて曲の意図が歪められています。記譜表現と指揮・演奏による集団音楽の齟齬を感じます。
近年の外国アマチュアクラシック作曲家が作る曲はこういう精密で「支配的」な記譜をしようとすることに執着するあまり、演奏表現によるプラス要素をスポイルしすぎる傾向にある、と私は考えています。だったら打ち込みでやったほうが良いんじゃね?と。記譜音楽は支配のための仕組みではないはずです。
『エル・サロン・メヒコ』の変則的な拍子と記譜はタイトなものではなく、酔っぱらいを表現したものとして解釈するべきです。いわゆるフランスクラシックのエスプリでもないし、ストラヴィンスキーなど現代バレエ音楽のような痙攣でもありません。
同様の解釈について、クラシック音楽日記(新)さんでも
「指揮者は「譜割を変えて」振っていた様に記憶している。」とあります。記譜された拍子通りに振るべきではない音楽です。
同様のズレた記譜表現はロマン派初期からずっとある技法です。歌の制作において必ずしも歌詞を言語として捉えず、音楽のために自由に表現するのと同様、『エル・サロン・メヒコ』のフレージングも仮の歌詞を当てはめてみて、標題音楽として積極的な表現を試みるべきでしょう。
だから上でdisった「画質だけの動画」は紹介したくないんです。本当にクソ指揮だったので。
・管弦の使い方
厚くて薄い繊細な扱い方です。
特筆するべきはトランペットとクラリネット(小Es)のふざけた用法。そしてそれらは1本だけのソロで運用されず、ユニークなオーケストレーションで華やかに援護されています。
中高音域の不協和音は透明感があり、レイヤーされる楽器とその音域の音色特性を非常に巧みに扱っています。
特殊な奏法は、それ自体が目的ではなく、ちゃんと楽曲表現に適した運用になっています。クソ現代作曲家は見習うべきです。おかしな奏法指示で独自性をアピールするのではなく、あくまでもその音楽の中にあるべきです。(もっともこれらは「特殊」と言うほど特殊でもありませんが。)
・打楽器の使い方
パーカッションの使い方はコープランド一流のそれで、非常に洗練されています。私の理想とするところの1つです。パーカッションの扱い方の上手さでのもう1つの巨塔は言うまでもなくグレインジャー。
eki-docomokirai.hatenablog.com
・その他
橋本音楽堂さんが多くの「ラリった」ソロ譜例などを紹介しているのでどうぞ。
h-ongendo1964annex.cocolog-nifty.com
■ガーシュインよりコープランド派
当時のアメリカはヨーロッパに比べて文化的にあまりに希薄です。いくつかの大きな戦争を経て、文化的アイデンティティの軽薄さの裏返しとしての「アメリカ万歳」がもてはやされます。
正直な所わたしは現代に至るアメリカ音楽文化をそれほどすばらしいものと感じていません。
ジャズとライトミュージックの勃興+アメリカ万歳の象徴として『ラプソディ・イン・ブルー』(ガーシュイン)がやたらとアピールされているのですが、私はアメリカ音楽のオリジナリティはコープランドだと思っています。正直『ラプソディ・イン・ブルー』は好きじゃないです。アメリカのアイデンティティとしてのジャズを押し付けてくる感がちょっと下品だと思う。同曲に対する様々な逸話も同様に。それを戦勝国、事実上の世界警察国家として強国の価値観を強制してくるような感じがするんです。
また、ジャズと言いつつジャズの最も重要な要素が完全にオミットされてしまっているという構造的欠陥があります。オーケストラという記譜音楽の枠に悪い意味ではまり込んでしまっているわけです。モーリス・ラヴェルはガーシュインに何も指導しなかったとされていますが、もし私が一言提言できるとしたら「クラシックオーケストラとは楽譜の上に立つ音楽だが、ジャズは楽譜の外を大事にする音楽だ。ジャズを取り入れるならジャズの精神性にちゃんと敬意を払い、同等に融合するべきではないか?」と言うはずです。
その点においてコープランドの音楽のほうが旧態依然とした標準的なオーケストラという制限された領域でこれほどのオリジナリティを発揮していることはもっとアピールされるべきだと「私は」感じるわけです。
コープランドのサウンドの方がその後の映画音楽などへの影響力はストレートだと思うんです。『ラプソディ・イン・ブルー』の影響力はと言えば、異なる分野のミクスチャのさきがけとしての存在感はあるものの、そのサウンド自体のフォロワーが存在しないと言えば納得してもらえるのではないでしょうか?
より大げさに言えば、「売れていて有名だからそれが代表格になる」という価値観は民主主義・消費社会の悪い点なのではないでしょうか。売れてて有名で露出が多い嵐ジャニーズが日本の音楽なのか?という意味と同じです。
・他のコープランドのおすすめ曲
コープランドのバレエ用音楽。あえて時系列と逆に紹介。
・アパラチアの春(1944)
『アパラチアの春』の話をする際に私が必ず言うのは『ターン・エー・ガンダム』のサントラ(菅野よう子)の話です。
『ターンエーガンダム』は言い逃れのできないレベルでコープランドを下敷きにしています。(その他ヴェルディなども。)
同作のアーリーアメリカ調の舞台と牧歌的な物語にすばらしくマッチした着想だと思います。菅野よう子はパクりが多いですが、無意味なオリジナリティ幻想で右往左往している人よりも、現代という息苦しい時代を消化しつつ、文化が飽和した世界で上手く立ち回っている人だと思います。飽和した時代に必要な処世術は「重箱の隅」から飛び出すオリジナリティの模索ではなく、過去に蓄積された文化を摂取・消化し、ふるいにかけて昇華していくことだと私は考えています。
いわゆるエピック音楽への変貌によって何も表現できなくなった添え物の音楽より、コープランドのようなちょっとマイナーに成り下がってしまった音楽を再発掘し、トップシーンで表現していくのは素晴らしい戦略です。あの人は絶対にそういうことを自分では言いませんが。
・ホーダウン(1942)
ホーダウン。「死ぬまで踊り狂え!」
バレエ『ロデオ』の終曲。の小編成編曲版。
演奏機会は少なく、稀に演奏されるとしても「華やかさ」だけをフューチャリングしてやたらと大編成編曲で演奏されるのが下品だなぁと思う。そもそも本来は小編成の弦楽合奏用に作られているので、こういうサウンドの方が正しい。(正しいってなんだ?)
2年後に作られた『アパラチアの春』も小編成用なので、その前章だと遡及解釈すれば納得してもらえるはず。
開放共鳴弦徹底的に多用したサウンドから分かるとおり、これはフィドル音楽、ジプシー音楽だ。それを極大編成オケでやろうとするのは間違いだと思うけど、どう?
こういう点から他の曲も観察してみると、ジプシー奏法による開放弦のサウンドと、そこから派生する倍音を上部で取り入れることでコープランド式の不協和音が生成されている、と理解することができます。
冒頭にあげた楽譜をもう一度。
一般的にバイオリン属の開放弦による不協和音は下に重ねますが、この場面ではメロディより上のE線を開放弦重音として採用していることが明らかです。
・ビリー・ザ・キッド(1932、1938)
分かりやすい辺りから時間指定URLで。
その後のアメリカ映画音楽にこういう曲が多いよね。
■有名なアレ
とはいえ今日、最も多く演奏されるコープランドの曲と言えばこれしかない。
『市民のためのファンファーレ』(1942)だ!
ちょい音が悪いけど、このくらいのアーリーリフレクションのある広い音場での演奏が最適だと思うので、この動画をチョイスした。演奏するのはアメリカの楽隊であるべきだ。
あえて薄い和声でセクションのユニゾンを前面に出したサウンド。高音域だけから始まり、それが重厚な和音に広がっていく。
ただ、こういう音域のファンファーレはなかなか良い音で演奏してくれないので、中途半端な楽団向けにファンファーレを製作する際には参考にしてはいけない!